ブリキの猿

 「とうとうあかなんだよ」電話の声は とさや食堂のおっちゃん「そんで嫁さんは」「ゆんべから姿が見えん」私は悲しみより先に失踪した彼の妻に腹が立つ「有難う すみませんでした」受話器を置くと 出先の主人に連絡し 指示をうける 手隙の者を呼び集め 通夜の為に 掃除をはじめる

 娘の一歳の誕生日に 彼は ブリキの猿のおもちゃを買ってくれた ゼンマイを巻くと猿は お腹の太鼓を叩く 娘にせがまれて 何度もゼンマイを巻き 一緒に笑い興じてくれて お猿のおっちゃんになってしまった

 酒好きから胃を痛め 初めて入院した時 いつのまにかいなくなった彼の妻にかわって下着と洗面具を病院に届けた 創業の苦しい時の主人の片腕だった 私達の同士だった彼の家に行き、二人の幼児を連れてきて 娘と一緒に乳母車にのせ 銭湯に行った 食事洗濯 三人になった子供の世話で大忙しだった

 田舎から おふくろさんがとんできて 子供を引きとり 禁酒を誓った彼も退院し 平穏な生活が始まったら いつのまにか戻った嫁さんが おふくろさんを田舎に帰した 禁酒のたかが ささいなことからはずれた 泥酔の果ての自虐 反省から丸めた坊主頭でがんばってはいたが、半年のサイクルが 三ヵ月になり 三ヵ月が 一ヵ月になり 入院と退院をくり返した

 再入院を聞いてはいたが 忙しい家業にかまけて見舞いを伸ばしていた 彼の臨終に立ち会ったのは ゆきつけのとさや食堂のおっちゃんだけだった 敵前逃亡癖の彼の妻は行方不明だ

 ゼンマイが切れ おもちゃ箱に放っておかれた ブリキの猿のように 額に横じわを寄せて眠っている彼「もう太鼓を叩かなくてよいのよ ゆっくりお休み」柩のそばには 制服姿の 大人びた子供達が座っていたが 出棺の時間がきても 彼の妻は現われず 割った茶碗は 私が拾った 火葬場へ出払ったあとの しんとした部屋で 一人で座っていると どこからか ブリキの太鼓が聞こえだすのだった





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